ブラウス一枚分の距離

 僕らは電車の中で隣り合って立ったまま、無言で時を過ごした。
 満員電車の中で、彼女と僕の腕はぴったりとくっついていた。
 彼女の着ている薄いブラウス一枚を隔てて。
 けれど、僕にはその距離が、海の向こうよりも遠くに感じられた。
 それは何よりも、僕らの関係を象徴しているように思えた。
 だいぶ涼しくなってきた時分にも関わらず、電車の中は汗の臭いでむっとするようだった。
 その臭いに混じって、ほのかにリンスの香りがした。
 彼女の髪の匂い。
 彼女は黙って窓の外を見ている。見ているふりをしている。
 瞳はじっとどこか一点を見つめている。通り過ぎる景色に合わせてめまぐるしく動くのではなく。
 駅に着き、ドアが開いた。
 降りていく客のお陰で、少しだけ隙間ができ、また乗り込んでくる客に押されて、僕は体を押しつけられた。見知らぬ誰かと、そして彼女と。
 ドアが閉じ、また電車は走り始めた。
 もう一駅。あと一駅で、彼女は行ってしまうのだ。
 何か言わなければいけないと思った。
 何か言わなければならないのに……
 電車が止まった。
 ドアがスローモーションで開いた。
 彼女の腕が僕の腕から離れた。
 彼女の体が動き出し、僕はかすれた声で、ようやくのことで言った。
「さよなら」
 いや、喉に引っかかって彼女の耳には届かなかった。
 もう一度言った。
「さよなら」
 人の流れに押されて遠ざかってゆく彼女が、こちらを振り返った。
「またね」
 さりげない言葉を耳の底に引っかけて、彼女は人波の向こうへ消えていった。