なぜ小説を書くのか

ずいぶん前に、人はなぜ絵を書くのかという日記を書いたことがあった。
書いてからずいぶんたって、コメントをつけていただいたりもした。


私は絵描きでなく物書きなのだが、なぜ小説を書くのか、という問いを、未解決のままにしていた。
改めて記しておきたい。
なぜ小説を書くのか。
(※過去の日記を読み返したら、ほぼ答えに近いことは書いてあった。
 やはり人は記憶を捏造するものらしい。だが、今の考えとして、もう一度書き残しておく)




答えはとてもシンプルである。


そこに私がいるからだ。
小説の中に。
言葉の中に。


私にとって、名前は音と文字の連なりでしかなかった。
国民に番号を付与すると話が出たとき、人格を否定するものだと反対する人達がいた。
きっとその人達は、自分の名前にアイデンティティを感じているのだろう。
私は番号でもちっとも構わないじゃないかと思った。
ハンドルネームやペンネームのほうが気に入っていたし、それだっていつ変えても構わないのだ。
名前は、親が与えてくれたということ以外に意味を持たなかった。


身体は殻にすぎなかった。ガンダムのような。
その中に乗っている私は小さな目に見えない小人で、だから私は容姿をどうこう言われても、アバターを誉めたりけなされたりするのと同程度の反応しか返せなかった。
使い捨てであっても、アバターのほうが自分で作りあげただけ、まだしも愛着があった。
朝から晩まで容姿を気にかける人は、「容姿を気にかけ、手をかける」という事実によって、容姿を自分のものにしているのだろう。


年齢も性別も国籍も日々の糧を得るための職業も、私にとっては、家に帰れば捨て去りたい類のもので、そこにアイデンティティを感じたりしたことはなかった。
じゃあお前は何なのか、と聞かれたら、私はこう答えるだろう。


「私は作家です」


ぼろぼろのノートに小説を書いて、友達の間を回している間も、私にとってのアイデンティティは作家だった。
あるいは、こう言い換えてもいい。
私は「文章で表現する」ことによって自分を確立している者です。


「私がここにいる」と感じられたのは言葉の中だけだった。


「言葉」はその時々の「私」のスナップショットだ。
過去の日記を読んでみて、自分の記憶していることと違って驚くこともある。昔の自分に教えられることもある。
どちらが正しいといえば、その時残した言葉のほうが正しいのである。人の脳は記憶を捏造するが、言葉は嘘をつかない。
リアルな私は都度変化していくが、言葉の中には、私の本質が結晶化している。


自分のつづる言葉との対話を通して、私は自分自身を見つけ出す。
誰かに私を発見してほしいと願う。


物語を書く、ということに出会わずに生きていたら、私は宙に浮いたままの、歯車に過ぎなかっただろう。
小説は、人生に意味を与えてくれた。
私が大地を踏みしめて歩くための、靴であり、杖であり、道標である。


これが、今の私の出した結論、2011年5月のスナップショットだ。