青春について

サムエル・ウルマンの『青春とは、心の若さである』を買った。


私がこの詩に出あったのは、5年以上前になるだろうか。
父の知人の退職記念パーティで、このコピーを配っていただいた。
退職される方は、この詩を朗読した後、これからが第二の人生であると誇らしげに語っていた。



青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ち方を言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。


・・・(中略)・・・
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
・・・(中略)・・・


霊感が絶え、清新が皮肉の雪におおわれ、
悲嘆の氷にとざされるとき、
二〇歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八〇歳であろうと人は青春にして已む。


言いえて妙である。
私がこの詩を心に留めたのは、老人に対する励ましの言葉となるだけでなく、若者に対する警句として胸に突き刺さったからである。
当時、私の周りには、若年寄りが多く、まさしく皮肉の雪に蝕まれているように感じられた。
私自身もその例外ではなかった。
私は、まだ二〇代だというのに人生に腹を立て、疲れきっていた。


団塊の世代は強い。
年金のことで悪く言う若者もいるが、戦後の荒波を乗り切り、日本を復興した先輩たちの世代を私は深く尊敬している。
彼らの多くは、週休一日が普通で、ワンルームのアパートから始めて、苦労に愚痴をこぼすこともなく仕事をこなしてきた。
退職後もある人は独立して仕事をし、ある人は就職をし、仕事に趣味に、生き生きと人生を過ごされている。
恐らく、右肩あがりの時代が生んだ強さだろう。


私たちの世代にも、もちろんたくましい人はいる。
だが、平均すれば、どうしたってパワー不足の感は否めない。
周りを見渡せば、鬱病をわずらう人、引きこもりやニートも少なくない。
DNAが数十年で変わるはずもないから、やはり時代のせいなのだろう。


一昔前の日本は、ドラクエのようなものだった。
姫を助け出すとか魔王を倒すとか、分かりやすい共通の目標、万人にとっての幸福像が用意されていたのだ。
今の世はゲームクリアのないネットゲームと同じだ。
情報ばかりが氾濫する中で、大勢の人が目標を見失ってうろうろしている。
価値あるもの、手に入れるべきものを、自分で見出さなくてはならない。
自分は何を欲するのか?
金。地位。名声。家族。愛情。趣味。あるいはもっとささやかなこと?


自分の信じる価値観を、無条件に誰からも認めてもらえるということはなくなっている。
ナンバーワンよりオンリーワンを目指そうというが、そもそもナンバーワンになること自体が無理な時代になってきているともいえるだろう。
皆が認めるナンバーワンの定義が揺らいでいるのだから。


ひとたび無気力病に取り付かれると、自分が価値あると認めたものを、自分自身で片端から否定し始める。
それを手に入れてなんになるの? 努力してまで得る価値があるの? そもそも努力しても手に入らないんじゃないの?
そうして人は老いていく。
見かけよりもずっと早く。
サプリや健康法は、身体を若返らせてはくれるが、精神までは若返らせてくれない。


情報が溢れかえる今の世の中、子供でさえ純真無垢でいることは難しいだろう。
心をひからびさせないでいるためには、昔よりも努力しなければならないのだと思う。
心を動かし続けること。
強い信念を持ち続けること。
それでいて、それを人に押しつけないこと。
つまり、意固地になるのではなく、柔軟性と強い芯を同時に持ち続けること。
偽りの中の真実を、たくさんのまがい物の中に潜む本物の珠玉を見つけること。


八〇になった時、私も「今が青春」と胸を張って言いたいものである。