小説を書くわけ


ずいぶん長く日記をお預けにしていたが、前回最後に触れた「小説を書くわけ」について、少し手がかりが得られたので書いてみたいと思う。


きっかけは、「魔性の子」という本を読んだことだ。
ジャンルは、ホラーファンタジーだろうか、この作品のテーマは、喪失感である。
自分がこの世界の人間でない、どこか別に帰る場所がある、と感じる気持ち。


自分が異端だ、と感じる気持ちや、疎外感はよく分かる。
自分が正常だと信じており、外れた人たちを軽蔑する人よりは、普通よりちょっと外れた人たちに、私は心惹かれる。
だが、
「自分にどこか別の居場所があるのじゃないかと思う気持ち」
は、感じたことがない。昔から数多くの詩に登場する感情なのだが。
正直、この世界を生きていくのは、息苦しい時がある。だから私はファンタジーが好きだ。SFも好きだ。ここ以外のどこかへ、想像力の翼を広げて飛翔する。
でも、必ずここへ戻ってくる。
私の居場所はここ、人間の世界しかないのだと思う。
なぜ?
考えているうちに気がついた。


私は人が分かり合えると信じている。
けれど、本当はきっと分かり合えない、ということも、最近感じている。どんなに言葉を尽くしても。
人は一人一人違っていて、どんなに努力しても100%誰かのことを理解したり、理解してもらったりすることはできないのだ。
そのことに気づいたとき、私は呆然とし、寂しさと孤独を感じ、絶望する。
相手が分からない、分かってもらえないということが、恐くて仕方がない。
それでも私は言葉を紡ぎ続ける。
私の感じたこと、私の考えたこと、私の理想、私の中の世界を書き続ける。
そして私とは違う人々の感情や考え方を、私なりに解釈し、言葉で表そうと努める。
私は、いわゆるノンバーバルコミュニケーションが苦手だ。表情、仕草、雰囲気で人の気持ちを感じることが不得手で、だからこそ自分が異質だと感じることがあるのかもしれない。
表情を作るのにも自信がない。自分が、自分の思っているような表情をしているのか。微笑んでいるつもりの写真は無表情に見える。楽しい空想をしている時、「どうしたの、ぼんやりして?」と心配そうにいわれることがある。哀しい顔をしているつもりでも、どういうわけか気づいてもらえた試しがない。
その代わり、話したり書いたりするのは比較的得意だ。
自分が紡いだ言葉の中には、自分がいると感じている。
行間や言葉の間合いに隠された感情や思いも、比較的読み取れていると思っている。
私にとって、ネットやメールだけの友人は、現実世界の友人と何も変わらない。言葉でつながっているからだ。
言葉だけなら、いくらでも嘘をつける、という人もいる。だが、嘘は重ねれば嘘と知れるし、極端な話、嘘の中にすら真実が含まれていると信じている。
私の言葉に人が共感してくれた時、人の発した言葉に自分が共感できた時、魂がつながったと思える。


きっと、だからこそ、私の居場所はここだ、と確信できるのだ。
私が共感してほしい相手は、私が共感したい相手は、ほかならぬこの世界の人間たちなのだから。
小説を書くことは、私にとって生きる目的とほぼ同化している。
書くことを諦めると生きていけない。生きていくことが無価値に思えてしまう。
どうしてそんな風になったのか今まで分からなかったが、少し分かってきた。
小説は、言葉は、私が、この世界とつながっているための、命綱なのだ。
そんな気がする。