『アリの予言』

 久しぶりに大学の恩師のお宅を訪問した。
 先生は、アリの生態学を研究して三〇年。アリ社会の構造やコミュニケーション手段についてなら右に出るもののない、その道の権威だ。
 アリが意外にも高度な知能を持っていることを訴えてきた先生は、昨年、とうとうアリが独自の言語を持つことを発見し、ノーベル賞を受賞した。
 現在はアリの言葉を人間の言葉に翻訳する装置を作っているという。
 ぜひ本物の賞状を見せてもらおう。できることなら開発途中の翻訳装置を見てみたい、と楽しみだった。
 ところが、家に着くと、巨大なトラックが玄関の前を塞いでいた。
 GパンにTシャツ姿の男達が忙しそうに行ったり来たりしている。
 僕はトラックの脇をすり抜けて、家の中へ声をかけた。
「先生、こんにちは」
「おお、小林君か。久しぶりだな」
 腕まくりした先生が、家の中から顔を出す。
「お忙しそうですね。どうされたんですか」
「いや、急きょ引っ越すことになってね。てんやわんやしていたところだよ」
「なるほど、ノーベル賞もとられたことだし、もっと広いところへ引っ越されるんですね。これはお取り込み中のところ失礼しました。ではまた後日……」
 退出しようとすると、教授に慌てた風に呼び止められた。
「待ちたまえ、君。実はな……」
 先生は声をひそめる。
「開発途中の翻訳装置をわが家のアリで試していたところ、近いうちに地震が来ることが分かったのだ」
「えっ、地震ですか?」
「ふむ。どうもそれで新しい巣作りの場所を探しているようなのだな。彼らも引越の準備で忙しい様子だよ」
「でも、いくらアリに知能があったとしても、地震の予知なんてできるのでしょうか」
 僕は首をかしげた。
 人間にだってまだ地震は数十秒前にしか検知できないのだ。
「できるとも。ほら、地震の前には動物達が騒ぎ出すなんていうだろう。動物達には人間が失ってしまった第六感が働くのだよ」
 僕は眉唾だと思ったが、教授は熱心に語った。
 遅くとも一ヶ月以内にきっと地震がやってくる。君も早いところどこか遠くへ避難したほうがいいぞ、と。
 話半分で聞いていた僕も、帰りがけにアリ達がせっせと卵を運んでいるのを見かけて、だんだん不安になってきた。言われてみれば、確かにどこかへ避難していくように見える。
 残念ながら僕には遠くへ引越するほどのお金はない。
 仕方なく、まずは防災グッズでも買って地震に備えることにした。



 それから一ヵ月後。
 地震はまだやってこない。
 僕は再び教授の旧家へ立ち寄ってみた。
 すっかり人気のなくなった家は、ひっそりと静まり返っている。
 新しい家主はまだ入居していないようだ。
 さみしいものだな、と見ていると、向こうから工事のトラックがやってきた。
 トラックの後ろからショベルカーが下りてくる。なるほど、家を建て直すのか。でももし本当に地震が来るのなら、せっかくの新居も無駄になってしまうのかもしれないが。
 やがて解体作業が始まった。
 ドシン、ドシン。
 辺りに響き渡るすごい音。
 あ、と僕は思わず口を開いた。
 地震だとでも思ったのだろう。
 目の前を、驚いたムカデや団子虫が飛び出して、ぞろぞろと列をなして逃げていくのだった。